マル優

過去にはマル優とは別枠で郵便貯金の元本350万円までの利子に対する所得税を非課税にできる郵便貯金の利子に対する非課税制度という物があったが、日本郵政公社の民営化に伴い2007年9月30日をもって廃止され、他の民間金融機関と共通の非課税枠に改められた。
2002年まではマル優・特別マル優・郵貯マル優とも満65歳以上の人も制度対象者であったが、2003年より対象から除外された。
2002年までに契約された預金や郵便貯金・国債・地方債の利子については経過措置として2005年12月まで非課税扱いが継続されていたが、2006年1月1日をもって制度適用は廃止された。

田中星児

音楽教師をしていた両親の赴任地である奈良県御所市で出生、小学校3年生の時大阪府大阪市へ転居。幼少から音楽的環境に恵まれていた。
大阪府立阪南高等学校在学中からオーディション番組やのど自慢などに参加し、法政大学文学部在学中には1966年にはTBS『ナショナル10人抜きのど自慢』優勝、1968年にはNHK『NHKのど自慢全国大会』優勝、シャンソンコンクールで入賞、といった実力を発揮する。
その華やかな経歴や抜群の歌唱力が話題になり、1970年に、NHKの音楽番組『ステージ101』のレギュラーとなり、翌年には同局の幼児番組『おかあさんといっしょ』の初代うたのおにいさんとなる。
1976年に、「ビューティフル・サンデー」が80万枚の大ヒット。
同年の『第27回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たした。

西村京太郎のエピソード

西村京太郎に纏わるエピソードを調べてみた。
赤川次郎らと同じく原稿は全て手書きで書いている。
また、この原稿が神奈川県湯河原町にある西村京太郎記念館に不定期に展示される。
ちなみに原稿を書く時には100円のボールペンを使い、最低でも毎日原稿用紙15枚分は書くことを長年の日課にしていると語っているそうだ。
また、原稿用紙は横長の特別注文によるものである。
寝台列車の廃止について「何を書こうか悩んでいたとき、題材を見つけようと東京駅に行ったら、折しもブルートレインブームで、それを元に「寝台特急殺人事件」を書いた。
もし、寝台列車がなかったら、一生売れない作家だったかもしれない。

有島武郎の生い立ち

東京小石川に旧薩摩藩士で大蔵官僚の有島武の長男として生まれる。
母は幸子。
武郎4歳の時、父の横浜税関長就任を機に一家で横浜に移る。
父の教育方針により米国人家庭で生活。その後、横浜英和学校に通う。
このころの体験が後に童話『一房の葡萄』を生むことになる。
10歳で学習院予備科に入学し、19歳で学習院中等全科を卒業。
その後、札幌農学校に入学。教授の新渡戸稲造から「一番好きな学科は何か」と問われ「文学と歴史」と答えたところ失笑を買ったという。
内村鑑三や森本厚吉の影響などもあり、1901年にキリスト教に入信する。農業学校卒業後に軍隊生活を送り、その後渡米。
ハバフォード大学大学院、さらにハーバード大学で学び、社会主義に傾倒しホイットマンやイプセンらの西欧文学、ベルクソン、ニーチェなどの西洋哲学の影響を受ける。
さらにヨーロッパにも渡り、1907年帰国。
このころ信仰への疑問を持ち、キリスト教から離れる。

ドンキホーテの魅力

旧態依然としたスペインなどへの批判精神に富んだ作品で、風車に突進する有名なシーンは、スペインを象徴する騎士姿のドン・キホーテがオランダを象徴する風車に負けるという、オランダ独立の将来を暗示するメタファーであったとする説もある。
実在の騎士道小説や牧人小説などが作中に多く登場し、書物の良し悪しについて登場人物がさかんに議論する場面もあり、17世紀のヨーロッパ文学についての文学史上の資料的価値も高い。
主人公の自意識や人間的な成長などの「個」の視点を盛り込むなど、それまでの物語とは大きく異なる技法や視点が導入されていることから、最初の近代小説ともいわれる。
年老いてからも夢や希望、正義を胸に遍歴の旅を続ける姿が多くの人の感動をよんでいる。

アガサクリスティの生い立ち

1890年、フレデリック・アルヴァ・ミラーとクララ・ベーマーの次女としてイギリス南西部のデヴォンシャー州に生まれる。
三人兄弟の末っ子で、10歳近く年の離れた姉と兄がいた。
しかし年頃の姉マーガレットは寄宿学校に居り、長兄モンタントはパブリックスクールを退校して軍に入隊していた為に幼少期を共にする機会が少なく、専ら両親や使用人達と過ごした。
父フレデリックはアメリカ人の事業家だが商才に乏しく、祖父の残した遺産を投資家に預けて、自身は働かずに暮らしていた。
母クララは父の従兄弟で、少々変わった価値観を持つ「変わり者」として知られていた。
母の特異な性格はアガサや家族の運命に少なからぬ影響を与えたが、フレデリックは気侭な妻を生涯愛し続け、アガサも母を尊敬し続けた。

綱淵謙錠

出版社のサラリーマン生活は月給8千円、しかも6ヶ月は見習期間で支給されるのはその8割だった。
「会社から帰ると汗っかきの私は上がり框に腰掛けバケツで足を洗い、その足を拭きながら妻が涙を落とすこと度々で、見ないようにした」と後年語っている。
1953年秋には同社編集部長宅に居候。
翌年12月校閲部異動、1955年秋編集部に。
32歳で谷崎潤一郎の担当になり、1959年同全集を刊行、翌年にはエリオット全集、子母澤寛「蝦夷物語」「逃げ水」などの出版に携わった。
氏のジャンル歴史小説への“のめり込み”は30歳代前半に子母澤の「新選組始末記」との出会いにあったといわれ、長谷川伸や海音寺潮五郎の史伝的作品にも関心を寄せた。
1970年築地本願寺で行われた三島由紀夫の葬儀の手伝いが編集者としての最後の仕事で、1971年3月中央公論社を退社する。

悲しみの歌

過去に米軍捕虜を生体解剖した医師、勝呂はすでに刑期を終えて社会復帰していた。
自分の医局のあった博多を離れ、新宿で開業医をしていた。
勝呂は過去の業に囚われ、人生に目的ももたず、家族も持たず、ただ寂れた医院でやってくる患者の相手をしていた。
あるとき、優しいフランス人のガストンが、どうしても見過ごせずに連れてきたナベさんと言う身寄りの無い老人を診療する。
すでに末期がんであり、痛み止めをひたすら打つだけの終末医療に、ナベさんは感謝しながら安楽死を勝呂に願う。
度重なる願いと絶望的な苦痛に悶え続けるナベさんを前に、勝呂はだましだましの治療をすることに耐え切れず、苦痛からの唯一の解放手段である安楽死を与える。
ナベさんは感謝しながら死ぬ。

二科会

文展は官展であり、大正初めには、画家の登竜門のひとつとして重要な存在になっていた。
その日本画の部門は、新旧の二科に分かれており、新しい傾向の画家たちも比較的活動しやすかったのに比べて、洋画部門はそのようになっていなかった。
そして、審査側が硬直的・停滞的な体質に陥っていた。
山下新太郎、津田青楓、有島生馬ら、新帰朝者を中心にしたグループは、1913年の文展の審査に不満を持ち、洋画についても二科制とするよう政府側に建白書を提出したが、受け入れられそうにないため、新しい美術の発展を図るために文展を脱退し、“旧科”文展に対する“新科”の「二科会」を結成した。
会員たるには文展に出展しないことが参加条件であった。
創立メンバーには、山下・津田・有島の他に石井柏亭、田辺至、梅原龍三郎、柳敬助、小杉未醒、斎藤豊作、坂本繁二郎、湯浅一郎らがいた。
後に独立美術協会、一水会、行動美術協会、二紀会、一陽会が独立した。
その後も、創立時の気風は受け継がれ、新しい傾向の作家に活躍の場を提供、多くの芸術家を輩出している。

井上靖の作風

小説は現代を舞台とするもの、自伝的色彩の強いものに加え、歴史に取材したものに大別される。
歴史小説は、日本で特に戦国時代中国ではとりわけ西域を題材にしたものを多く描いた。
巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。
歴史作品を中心に各国語に翻訳され、日本ペンクラブ会長時代にはしばしばノーベル文学賞の候補とされた。
読売新聞は2012年3月にノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長に取材し、「井上靖が、非常に真剣に討論されていた」といったコメントを得たことを報じた。