アガサクリスティの生い立ち

1890年、フレデリック・アルヴァ・ミラーとクララ・ベーマーの次女としてイギリス南西部のデヴォンシャー州に生まれる。
三人兄弟の末っ子で、10歳近く年の離れた姉と兄がいた。
しかし年頃の姉マーガレットは寄宿学校に居り、長兄モンタントはパブリックスクールを退校して軍に入隊していた為に幼少期を共にする機会が少なく、専ら両親や使用人達と過ごした。
父フレデリックはアメリカ人の事業家だが商才に乏しく、祖父の残した遺産を投資家に預けて、自身は働かずに暮らしていた。
母クララは父の従兄弟で、少々変わった価値観を持つ「変わり者」として知られていた。
母の特異な性格はアガサや家族の運命に少なからぬ影響を与えたが、フレデリックは気侭な妻を生涯愛し続け、アガサも母を尊敬し続けた。

綱淵謙錠

出版社のサラリーマン生活は月給8千円、しかも6ヶ月は見習期間で支給されるのはその8割だった。
「会社から帰ると汗っかきの私は上がり框に腰掛けバケツで足を洗い、その足を拭きながら妻が涙を落とすこと度々で、見ないようにした」と後年語っている。
1953年秋には同社編集部長宅に居候。
翌年12月校閲部異動、1955年秋編集部に。
32歳で谷崎潤一郎の担当になり、1959年同全集を刊行、翌年にはエリオット全集、子母澤寛「蝦夷物語」「逃げ水」などの出版に携わった。
氏のジャンル歴史小説への“のめり込み”は30歳代前半に子母澤の「新選組始末記」との出会いにあったといわれ、長谷川伸や海音寺潮五郎の史伝的作品にも関心を寄せた。
1970年築地本願寺で行われた三島由紀夫の葬儀の手伝いが編集者としての最後の仕事で、1971年3月中央公論社を退社する。

悲しみの歌

過去に米軍捕虜を生体解剖した医師、勝呂はすでに刑期を終えて社会復帰していた。
自分の医局のあった博多を離れ、新宿で開業医をしていた。
勝呂は過去の業に囚われ、人生に目的ももたず、家族も持たず、ただ寂れた医院でやってくる患者の相手をしていた。
あるとき、優しいフランス人のガストンが、どうしても見過ごせずに連れてきたナベさんと言う身寄りの無い老人を診療する。
すでに末期がんであり、痛み止めをひたすら打つだけの終末医療に、ナベさんは感謝しながら安楽死を勝呂に願う。
度重なる願いと絶望的な苦痛に悶え続けるナベさんを前に、勝呂はだましだましの治療をすることに耐え切れず、苦痛からの唯一の解放手段である安楽死を与える。
ナベさんは感謝しながら死ぬ。

二科会

文展は官展であり、大正初めには、画家の登竜門のひとつとして重要な存在になっていた。
その日本画の部門は、新旧の二科に分かれており、新しい傾向の画家たちも比較的活動しやすかったのに比べて、洋画部門はそのようになっていなかった。
そして、審査側が硬直的・停滞的な体質に陥っていた。
山下新太郎、津田青楓、有島生馬ら、新帰朝者を中心にしたグループは、1913年の文展の審査に不満を持ち、洋画についても二科制とするよう政府側に建白書を提出したが、受け入れられそうにないため、新しい美術の発展を図るために文展を脱退し、“旧科”文展に対する“新科”の「二科会」を結成した。
会員たるには文展に出展しないことが参加条件であった。
創立メンバーには、山下・津田・有島の他に石井柏亭、田辺至、梅原龍三郎、柳敬助、小杉未醒、斎藤豊作、坂本繁二郎、湯浅一郎らがいた。
後に独立美術協会、一水会、行動美術協会、二紀会、一陽会が独立した。
その後も、創立時の気風は受け継がれ、新しい傾向の作家に活躍の場を提供、多くの芸術家を輩出している。

井上靖の作風

小説は現代を舞台とするもの、自伝的色彩の強いものに加え、歴史に取材したものに大別される。
歴史小説は、日本で特に戦国時代中国ではとりわけ西域を題材にしたものを多く描いた。
巧みな構成と詩情豊かな作風は今日でも広く愛され、映画・ドラマ・舞台化の動きも絶えない。
歴史作品を中心に各国語に翻訳され、日本ペンクラブ会長時代にはしばしばノーベル文学賞の候補とされた。
読売新聞は2012年3月にノーベル委員会のペール・ベストベリー委員長に取材し、「井上靖が、非常に真剣に討論されていた」といったコメントを得たことを報じた。

志怪小説

中国において古代から歴史書の編纂は重要な仕事とされて盛んに行われたが、市井の噂話や無名人の出来事、不思議な話などはそこには記載されることは稀で、それらは口伝えに伝えられるものとなっていた。
秦・漢などの宮廷では、優倡、俳優といった娯楽のための職業人がおり、芸能とともに民間の話題をすることもあった。
後漢末になると、曹丕が奇怪な話を集めた『列異伝』を編したと伝えられ、六朝の東晋では干宝『捜神記』を著した。
これらは志怪小説と呼ばれ、民間説話が数多く含まれている。
一方で、劉宋の劉義慶は古今の人物の逸話を集めた『世説』を著し、20世紀になってこのような作品を志人小説と呼ぶようになった。
これらのあと、六朝時代には多数の志怪小説、志人小説が書かれた。

幸田露伴

1894年、腸チフスにかかり死にかけるが、翌年に結婚、それ以降の数年で『ひげ男』『新羽衣物語』『椀久物語』を発表、また当時としては画期的な都市論『一国の首都』『水の東京』も発表する。
この頃に同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。
「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。
また尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。

L・ロン・ハバード

ハバードは論争の的となる有名人であり、彼の人生の詳細はいまだに議論されている。
サイエントロジーの公式な伝記は彼を「生命よりも大きな存在」として紹介し、その生涯は「驚愕すべき広範にわたる分野で、敬服すべき業績の数々にちりばめられている」としている。
これらの主張の多くは以前サイエントロジー信者だった者や、サイエントロジーと関係の無い第三者の研究者たちによって議論されており、彼らはハバードに対して厳しく批判的な記述をしてきた。

罪と罰を書く前のドストエフスキー

政治犯としての刑期を終え、シベリアから帰還したドストエフスキーを待っていたものは度重なる不幸であった。
病床に臥した最初の妻マリアの看病はドストエフスキーを疲弊させ、ポリーナ・スースロワとの不倫関係を持つきっかけとなった。
ドストエフスキーは妻マリアを差し置いてポリーナとのイタリア旅行を画策するが、一足先に旅立っていたポリーナは寂しさにかられて他人に身を任せ、ドストエフスキーを落胆させた。
それでもドストエフスキーは持ちこたえ、彼女とイタリア旅行に向かうが、その直前にヴィスバーデンで大勝していたこともあって、行く先々でルーレットに大金をつぎ込み、ポリーナにも愛想を尽かされる。
さらに、妻マリヤと実の兄ミハイルが相次いで世を去り、ミハイルが創刊した雑誌『世紀』も廃刊に追い込まれ、莫大な借金だけが残された。
新作『地下室の手記』も評価されず、失意のうちにあったドストエフスキーは悪徳出版業者ステロフスキーとの間に無謀な契約を交わし、それによって前借りした3000ルーブルを当座の借金の返済にあて、残った金を元手に再びヴィスバーデンに赴いた。
しかし彼はここでも大負けし、ホテルから蝋燭の提供さえ拒否されるという窮地に陥った。
このような状況の中で『罪と罰』初稿の執筆が開始されたのである。

ヨゼフィーネ・ムッツェンバッヒェル

ウィーン郊外の集合住宅に住む革細工職人の娘ヨゼフィーネ・ムッツェンバッヒェルは、5歳のとき同居人の若い男からスカートの下に熱い視線を注がれたことを記憶しており、彼を「最初の恋人」と呼んでいる。
7歳のとき、1歳半違いの兄のフランツとともに近所に住む友達フェルドルとアンナの兄妹のところに遊びに行ったペピは、「パパとママごっこ」に誘われ、それまで知っていた遊びと違い、赤ん坊が生まれるすこし手前から始まるという独特の筋書きに多少戸惑いながらも、言われるままにフェルドルとカップリングして演技をすすめているうち、股間にくすぐったいのとは別の、未知の快い感覚を覚える。
それからというもの、ペピとフランツは頻繁にフェルドル兄妹を訪ね、その親戚の少年少女たちも交えて「パパとママごっこ」にふけった。